今月の栞 2014年9月 飯野幹夫先生 (教育)

KS00083


  ドストエフスキー 著
亀山郁夫 訳
『罪と罰』光文社古典新訳文庫
光文社 2009
   有能で将来を嘱望される大学生ラスコーリニコフは貧しい人々のための社会改革を志すが、学業半ばにして学資の決定的な枯渇に苦しむ。そして妹の不本意な婚姻と引き換えにその相手側から学資の提供を示唆され、迫り来る期限に心迷い悩む。他方でその同じ地域の悪辣な金融業の老女は、人の弱みに付け込んだ情け容赦のない取り立てによりお金がお金を産むさまを繰り広げる。“今・ここで”自分にほんの一握りのお金があれば、社会に役立つ働きへ踏み出すことができるのに……。何が正しく、理に適うか。何が望まれ、忌避されるべきか。感情と理性の独占は人の常として否めないが、しかし人間であることに誠実であろうとするだけ、ものの見方・感じ方の多様性を実感するはずである。この独占への走り易さは正義の立場を自認した独善への危うさと表裏一体をなす。独占へのこだわりを戒める禁欲精神(世界観的禁欲)を培うことも熱く念願される。
 「ド」からの系譜地平では「ラ」に「ソ」が<隣る(となる)>。視線の焦点はラスコーリニコフの思惑・動向から、<隣る人>ソーニャに引き寄せられる。主人公たちはあなたに出逢うことを静かに喜ぶ。隣るはどのような在り方だろうか。それは必ずしも遠藤周作におけるような宗教性に照らした意味ではなく、苅谷剛彦のような宗教性から離れた意味で理解されてよい。個人的なことが普遍的な事柄に深く繋がることがよくある。人間の精神は他の動物のような本能の確かさに期待できないが、しかし想像力による問いかけや後からの理解と自覚、いわゆる学習を積むことができる。問いかけは基本的に“今・ここ”の自分がなすのであり、“今・ここ”の現実の打ち克ち難い重みも働く。しかしながら、例えば十年後の自分を先取り的に借りて、タイムカプセルを開く自身を想像しよう。“十年を超えて隣る自身”により、そのカプセルへどんな在り方の“今・ここ”の自分が呼び入れられるか。
 
  図書館員からひとこと