今月の栞 2013年9月 横井雅子先生 (音楽学)

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  有吉佐和子 著
『一の糸』
新潮社 2007
      この本を手にしたのは大学時代、ちょうど文楽を見始めた頃です。実は大学に入るまで西洋音楽しか知らなかったので、大学では日本音楽や世界音楽の授業を積極的に受講し、生でこれらに触れることを渇望していた時期でした。今と違い、伝統芸能・音楽に対する関心が総じて低かった時代ですが、初めて目にした文楽の、歌舞伎と違ったストイックな雰囲気にすっかりはまり、その世界をもっと知りたいと思って読んだのが『一の糸』です。
   著者の有吉佐和子さんの作品はそれまでに『華岡青洲の妻』しか読んだことがなかったのですが、伝統芸能の世界特有のものごとの進め方、考え方、人の動きなどが生き生きと描かれており、見始めたばかりの文楽の舞台裏を見るかのような思いで一気に読んだことを思い出します。有吉さんは日本舞踊の吾妻徳穂さんの秘書を務めた経験がおありで、表舞台だけでない伝統芸能の世界を描くことに秀でておられたそうです。この小説はフィクションですが、戦後すぐに起きた文楽の分裂事件に取材したと思われる出来事も登場し、昨今の大阪市による補助金カット騒ぎどころではなかった文楽の危機の時代についても知ることができました。
   何よりも興味深かったのは、かつての劇場の興行の実態や、20世紀前半の日本での芸人たちの位置づけ、文楽の三業(太夫、三味線、人形遣い)におけるヒエラルキーといった今では知ることが難しい側面がストーリーの中で無理なく書かれていたことで、このあたりは綿密な取材に基づきつつ、巧みなストーリーテラーだった有吉さんらしさが存分に発揮されているところです。余談ですが、この本を読んだことを日本音楽史の先生にお話ししたところ、「最後の方に太棹三味線では起こり得ないことが書かれていて、有吉さん、一生懸命調べたんだろうけど、実物を見なかったんでしょうね」と言われました。机上の調査だけでなく現物も、ということも図らずも教えられました。

  図書館員からひとこと